棋士、渡辺明のコメント
先日、渡辺明棋士のちょっと気になる記事があったので、それについて俺の思うところを記載する。
まずはこちらを読んでいただきたい。
(以下、渡辺棋士の記事)
皆さんはこれを読んでどのような感想をお持ちだろうか。
「なるほど。竜王の言うことは重みがある」
「頂点に上りつめた人だからこそ言える言葉だよね」
と納得する方もいらっしゃるだろう。
だが、俺の感想はこうだ。
「極めて浅はかな意見だな」
才能とは・・
まず、聞きたい。
「将棋の神様が与えてくれた才能」とは。
なんだ、この非科学的な言葉は。
人間は訳の分からない事象を目の前にしたとき、すぐに「神様」を持ち出す。
科学が発達していない大昔は、
「日照りが続く」、「大地震が発生する」、「疫病が蔓延する」など、
訳の分からない事象を「神の仕業」として理由付けしてきた。
大昔は仕方がなかったかもしれない。
だが、科学が発達した現代においてもなお、
すぐに「神様」を持ち出すのは明らかに思考停止だ。
以前にも「ディーププラクティス」に関する投稿で紹介した本を改めて載せておく。
今では、卓越した能力を持っている人についての研究は進んでいて、
ミケランジェロやモーツアルトでさえ、長い時間かけてその能力を醸成していったと言われている。
そう、彼らですら「神から与えられたもの」などではないと結論付けられている。
自分の実体験
俺は生物の進化とかに興味があって、そういったジャンルの本はちょいちょい読んだりする。
最近読んだ「サピエンス全史」はなかなか面白かった。
こういう本を読んでいると、
生物の進化はとてつもなく長い時間をかけてゆっくり進んでいくものと分かる。
人間の体や脳の大きさも何万年も前に今の大きさになって、
それからほとんど変わっていないという。
この何万年もの人類の歴史では、そのほとんどが動物を食料とする狩猟採集の生活を行っていた。
すなわち、体力勝負の世界がとてつもなく長かったわけだ。
だから、体が大きいとか、筋肉がつきやすいといった身体的特徴が遺伝するというのは理解できる。
だが、頭脳や技術的な能力はどうだろうか。
俺も昔は、すごい能力を持つ人を目の当たりにしたとき、
「こいつは生まれながらの天才だ・・」と、
まさに神から与えられた才能と驚嘆していた。
だがある時、とある動画を見てその意識が変わり始めた。
俺は以前、ゲーセンにあるドラムマニアにはまった時期があって、
仕事上がりにゲーセンに寄っては金をつぎ込んでいた。
やり始めたころは徐々に上達している感があって面白かったのだが、
中級くらいになるとそこから上達するのが難しくなってきた。
そこで、うまい人の動画を見てみたわけだ。
こちらの動画を見てほしい。
雨のように降ってくるバーを、両手両足で寸分の狂いもなく叩ききっている。
全部で1492のバーを、一つもミスすることなく
これを見た瞬間、
「こんなの、生まれつきドラムマニアの才能が・・」
と思ったが、
・・え、ちょっとまてよ。
生まれつきドラムマニアの才能って・・?
んなもん、あるわけねぇだろ
どっかに神様がいて、
「よし、この子にドラムマニアの才能を授けよう」などと、言うはずがない。
「先祖代々、ドラムマニアを教え込む家系」ということもない。
では、この能力をどう説明するか。
それは単純なことで、繰り返し練習したからに過ぎない。
繰り返し練習するには根気がいるが、それを面白がれると比較的継続するのは容易だ。
渡辺棋士の問題点
問題点①
それでは渡辺棋士のコメントに立ち戻ろう。
「子供に将棋を教えるという経験がそれまで一度もなかった」とある。
そう、すなわち子供に将棋を教える人としては圧倒的に初心者。
これから推測するに、できない人の気持ちを理解できず、
「なんでこんなこともできないの?なんで理解できないの?」という言葉を
自分の子どもに対して繰り返し言っている可能性がある。
そもそも、渡辺棋士の子どもは将棋が楽しいと思っているのだろうか。
「自分の子どもだからこれぐらいはやってほしい」という期待値を上げていないだろうか。
その期待値と子どもの理解力の差に、イライラした態度で接していなかったであろうか。
問題点②
こちらが最大の問題点になるのだが、
「竜王になるには、努力ではなく神から与えられた才能が必要」
というメッセージを送っていることだ。
俺は棋士の世界をよく分かっていないが、
いまこの時点でも、必死になって努力している棋士たちはたくさんいるはず。
その棋士たちは、楽しくて将棋をやっている人もいれば、
「自分には将棋の才能があるのだろうか」と、きっと不安になっている人も少なくない。
いや、むしろ不安を抱えている棋士たちの方が多いだろう。
それに対して、実績のある渡辺棋士が、
「竜王になるには、努力ではなく神から与えられた才能が必要」
と言って、他の棋士たちの心を折るようなことを言っていいのだろうか。
それは、棋士界にとってマイナスの発言ではなかろうか。
俺は「生まれつき・・・がある」や「マイナスの思い込み」を酷く気にするのだが、
その理由として2つある。
スタンフォード大学の実験
1998年にスタンフォード大学のキャロル・ドゥエックが努力と才能について興味深い実験を行った。
小学5年生400人に単純な問題を解かせて点数をつけた。
そのあと、子ども達をAとBの2グループにわけ、それぞれ別の声がけを行った。
Aグループには「こんな問題ができるなんて頭が良いのねぇ!」と生まれつきの能力をほめ、
対してBグループには、「こんな問題ができるのなんて本当によくがんばったのね!」と
今までの努力をほめた。
次に、難易度の高い問題と低い問題を用意して、子ども達にどちらを解くか選択肢を与えた。
すると、生まれつきの能力をほめられたAグループの実に3分の2が簡単な問題を選んだ。
難易度の高い問題を選んで失敗し、「頭が良い」というレッテルを失うことを恐れたためだ。
一方、努力をほめられたBグループというと、なんと90%の子ども達が難しい問題を選んだのだ。
これは、成功とか失敗とか関係なく、
実りある挑戦に関心があったからであり、自分がどれだけ頑張れるかを示したかったのだ。
棋士になろうとする人は、子どもの頃、他の子よりも圧倒的に将棋ができて、
「生まれつきの天才だ!!」と周りから言われていたんだと思う。
だが、全国からそういうやつらが集まっている場に行くと、実は自分が平凡な人間だったと痛感する。
いや、それは仕方ない。だがそのあとが重要なんだと思う。
「生まれつきの能力」を意識すると、努力をする力が弱くなってしまう。
努力で挽回できないと思い込み、「俺には才能がなかったよ」と諦めてしまう可能性がある。
吃音に関する実験
過去に行われていた、思い込みによる恐ろしい実験を紹介する。
1939年のアメリカのアイオワ大学でウェンデル・ジョンソンにより吃音に関する実験が行われた。
被験者は孤児院にいる男女22人の子ども達。
実験は子ども達を4グループに分け、それぞれ大人からの声がけを変えていった。
・A1グループ:全員吃音がある/ポジティブな評価
・A2グループ:全員発音が正常/ネガティブな評価
・B1グループ:全員吃音がある/ネガティブな評価
・B2グループ:全員発音が正常/ポジティブな評価
研究チームは「大人からの声がけにより吃音が発症する」という仮説の検証に取り組んだ。
まず、大人からのポジティブな評価は特に問題ない。
「しっかり話せているよ、発音がきれいだよ」と言われるので支障がなかった。
だが、問題はA2グループの子たち。
もともと発音がきれいな子なのに、
「君には吃音の症状がある」と繰り返しネガティブな評価を与え続けたのだ。
これにより、A2グループの子たちに吃音が出始めることを研究チームは考えていたが、
結果として、吃音は発症しなかった。吃音は発症しなかったのだが、
A2グループの子ども達に深刻な精神疾患を与えることになった。
自分が吃音だと思い込むことで、性格が内向的になって人前で話すことができなくなり、
学校での成績は全員下がってしまった。
※詳しくはこちらの動画を見てほしい↓
まとめ
今回、渡辺棋士のコメントを取り上げたが、
子どもを持つ我々親としても、日々の声がけに注意しなければならない。
「子どもをほめて伸ばすのはよくない」という親がいるが、俺はその意見に断固反対である。
そしてそのほめ方にも注意が必要。
何か上手くいったとき、子どもに対して
「生まれ持った才能があるね」といった声がけをしそうになるが、才能の有無を褒めるのではなく、
「これまでたくさん練習してきたもんね!!」と努力量をほめるようにすべきである。
そして、うちでは子ども達に才能という言葉は使っていない。むしろ、
「我が家に天才はいらない。天才が欲しいとも全く思わない。
我が家に欲しいのは努力する子。努力して周りに良い影響を与える子」
と伝えている。
天から与えられた才能があるとかないとか、そういう議論は全く無駄だ。
いまの自分、五体満足で生まれてきた自分で十分。
戦え、戦え!!
心を燃やせ!!